偽コラム

へなちょこ「コラムみたいな」です。 そこ、 笑うなっ!




カンガエナケレバナラナイコト


平成13年11月初頭。私が住んでいる地方の県警に不祥事があったとの報道が流れた。

さかのぼること平成7年のこと、覚醒剤取締法違反容疑で容疑者が同法違反で公判中に当時の県警幹部の指示で、立件することなく逮捕後日釈放、さらに偽造有印公文書作成、事件の捜査中止していたというものである。

もみ消しである。

数年前から各県警での不祥事がいろいろと取り正され、世間を騒がせ警察内部の信用を失墜させたことは記憶に新しい。
当時は「暴力」「セクハラ」などの警察官一人一人のモラルに欠けた行動が事件として取り上げられ報道されていた。

今回の事件は個人のモラルの問題ではない。いわば某県警の全体的な体制の問題だと思われる。
処分として、当時の幹部ら13人の首が挿げ替えられ、現職8人、全部で17人の人間が退職、更迭、減給なりの処分を受けた。

上の文章だけを見るとなぜこのようなことが起こったということを考える前に怒りを覚えるヒトが多いかもしれない。
詳しく報じた報道によると、当時県警は大掛かりな覚醒剤検挙に向けて捜査を行っており、上記の事件はそれに隠れるような形で行われた。
内容はこうだ
「覚醒剤法違反で逮捕された容疑者は、県警からの依頼で捜査対象の全容を見極めるための協力をしていた。
その見返りとして身柄の解放、虚偽文書作成による容疑のもみ消しが行われた。」
というものである。

見返りとしての「もみ消し」。
報道の多くは「おとり捜査の幇助」という見識で行われていた。

そもそも、捜査の幇助とはなんなのか?

多分、覚醒剤流通組織の内部告発を含む情報提供だろう。
現にこの容疑者の協力のもとかどうかは分からないが、捜査の功績が認められ当時の県警は警視長官賞を得ている。
それが今になってこの体たらくである。

大事の前の小事
として捉えたのか、実質に情緒酌量であったのか?
青島刑事の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいぐらいだ。






しかし、着目したいのが、県警の不祥事よりも事件発覚のきっかけである。

「暴力」「セクハラ」のような事件は取調べを受けた被疑者があとになって告発したものであるが、今回の事件は「投書による告発」である。
告発したのが誰であるかは報じられていない。
調べはついているのだろうが報道規制か自主規制かどこにも見られない。

おそらく、
県警は当時のもみ消し疑惑が持たれた時から更なるその捜査自体をも、もみ消そうと動いたに違いない。
そのなかにいた、「正義感あふれる」人間がその後悔の念にとられ、告発に至ったのかもしれない。
もしくは
もみ消し事件の疑惑の糸口をつかんだ報道員が「鬼の首を取ったり」で英雄気取りであえて匿名で告発したのかもしれない。

むしろ後者ならいい。前者だとすると問題ではないだろうか?

日本人はその性格上「身内の恥を晒す」ことを極端に恐れる。大なり小なりと。
しかし、その保守的な正確は外部の存在に向けられると牙を剥く。日本人は誰かを責めることで保身の重要さを自ら認識する。
極端な話であるが、日本人に限らず先進国国民の多くはそうである。
しかも、日本は戦後から「大を尊び、中を責め、小を潰す」ことに生きがいを求めてきたのであるから、
現在の報道過多時代においてその牙は方々に向けられる。

今の日本人にとって、「身内の恥」と「国家の恥」、「世界の中の日本の恥」は完全に遮断され、
時に「国家の恥」は「国民」「自分」という枠組から飛び出し「他人の出来事」のように捉えられる。

国家だとか国民だとか言うと一部左利きのの方たちに怒られるが、事実ではないか。



話がスライドしてしまったが、内部告発をされる「縦社会の象徴警察」は今回の事件をもっと大きくするべきではないだろうか。
馴れ合いであることはもはや許されない。
今、変革の時を迎えなければならない。

今回の事件の発端が内部告発であるならば、内部告発というものほど恥ずかしいことは無いはず。

ヘンテコな例であるが

「うちのお父さんは水虫ですよ」と叫びまわる子供がいたら、その口を塞ぎ、誰も彼もが忘れ去るのを待つより、
水虫を治してから「水虫ではありませんよ」と訴える方が冷静だろう。




今、考えなければならないのは「受け止めるだけの側」ではなく、「縦社会に生きるすべてのヒトたち」ではないだろうか?




ヒトトシテイキルコト

大阪府某小学校の新学期がスタートしたという報道を見た。
考えると不思議だ。たとえ精神を害していても何のかかわりのない子供を殺せるだろうか?


今、自分が社会的立場を失い極度の精神不安定状態に陥り、希望の兆しさえ見えなかったとして、
まさに錯乱状態で包丁を手にし目の前に大人、子供が自分の立場とは裏腹に幸せそうな笑みを浮かべ「楽しい?」そう問われたときに、
どのような行動をとるか?
自分ももしかしたら切りかかるかもしれない。では、この状態で起こした犯罪は罪に問われないのか?
いかに精神が錯乱し、切りつけた相手が引き金になるような言葉を発したとしても、切りつける理由にはならないだろう。
では、理由もなく衝動に駆られて起こした行動は犯罪と言わないのか?
明らかに犯罪である。
私はいかに理由があろうとも他人が未来へ進むことを止めることは正当化されないと思う。

実際には人権問題や過去の判例という問題直面し、例え実刑判決が出たとしても「無期懲役」。
さまざまな恩赦がくだり、数十年で解放される「無期懲役」。
あえてザックリ言わせてもらうと他人の未来を止めることが許されないのが人間であれば、罪を犯した人間であれば第三者がその未来を止めることさえできるこの法治国家で、「無期懲役」という刑は無に等しい。
いま、「終身刑」「死刑」という刑に過剰に反応する方々もおられるが、それこそがエゴではないだろうか。
犯罪に対する刑は人権がどうこういう前に「目には目を」がもっとも「人間らしく」ではないであろうか?


今回の殺傷事件をみると確実に責任の一端を持たなければいけない学校。
「心のケア」は非常に大切であるが、それ以上に今回の事件に得た教訓をどのように生かすかであろう。

襲われた小学生主に1.2年生の教室は一階。
この学校の職員室は2階。
逃げ惑う子供たちを二階の窓から見てことの顛末を知った先生方もいる。
この学校だけではないと思うが、日本の学校の職員室は二階にあることが多い。

なぜだろう?
ふつう学校は関係者以外立ち入り禁止になっているが、校門が開かれ、校舎への扉も開かれている。

なぜだろう?
小中学校は義務教育である。意思に関係なく学ばなくてはならない。しかし、警備員や警備施設がほとんどない。


なぜだろう?


今も昔も、どうしても人を殺めたい
基地外や人質をとって世間に物申したい佐瑠が多い。
このご時世「いっちょ派手に」といろんな散り方を考えている
苦疎もいるだろう。

なぜ、学校らは対策を行わないのだろう?
なぜ、子供という将来の財産を預かって、ものを教える立場の人間がなぜ考えないのだろう?

事件は起こってから悲惨さがわかるものだが、この場合は起こしてはならない事件なのではないでしょうか?
今回の事件が起こった後、各メディアはこぞってアメリカの小学校を紹介していた。
日本よりも基地外率の高いアメリカは小学校などの教育機関、主に小さな子供を預かる施設では、学外にまず大きなフェンスが建てられている。
そして、子供の登校が終わるとフェンスを完全閉鎖。外部の人間が入ろうとすれば警備員つきの検問を通らなければならない。
銃犯罪のメッカのアメリカらしい警備体制である。

しかし、ここは日本。
大きなフェンスもいらないし、検問もいらないであろう。
せっかく日本に生まれ、世界一安全といわれる国なのだから、閉ざされた空間の中の学校ではなく、無限に広がる空を見ながら教育を受けさせるべきである。
この日本の学校において警備に必要なのは管理者の子供への愛情、危機管理の意思である。
外部と内部を分けて見ることが大切なのだ。

子供たちだって馬鹿じゃないのだから「ヘンなおじさん」学校内を不自然に闊歩していたら不審に思う。包丁を手にしていたら近づかないであろう。
要は学校内に不審者が入らないように、入ってきてもまず子供の前に管理者の目に付くようにするべきだ。

こうゆうことを述べていると「平和ボケ」という言葉が頭に出てくる。
「平和ボケ」。良い言葉だと思う。日本でなければ生まれない言葉だ。
が、我々は守らなければならない立場の大人で、「平和」の中に隠されている各々の義務をしっかりと考え、思い出さなくて名ならないのではないだろうか。




イマ、タタカウコト

平成13年8月13日の小泉首相の靖国神社参拝が問題視され、その夜からしばらくニュースの話題はそればっかりでした。
皆さんは靖国神社参拝をどう思われているのでしょう。
私は当然ですが戦争を経験しておりません。あたしの父もそうです。
今、この日本に戦争の本当の悲惨さ、当時日本軍がアジアに対してどのような対処をしてきたかを、私を含め多くの方がしっかりと理解できていません。

アジアの方々からは日本は戦後、自分たちのしてきたことを後世に伝えることを避けてきたといわれていますが、まさにそのとおりであると思う。
私みたいなガキの考えでは及ばないような難しい問題があったのかもしれないが、ただはっきりしていることことは、
当時の政府の「戦後の将来のための防護策」が甘かったのではないか。まあ、当時の政府は米の傀儡で何も出来なかっただろうが。


「過去の清算」という言葉がありますが、どうやるんですか?
代償を支払っておしまいですか?結局お金ですか?
誰が結局悪いんですか?

話は戻りますが、靖国神社には世界的A級戦犯にまつりあげられた方々がいらっしゃいますが、
彼らだけが戦争をはじめたんですか?彼らだけがGOサイン出したんですか?

一国の首相の小泉さんがあえて公式参拝に踏み切ったのは、彼のいとこである方が俗にいう「特攻隊」において、
その人生に幕を下ろしたことが要因であることは有名ですが。
彼が一国の首相になれた要因である「戦争被害者の会の影響」があったのも事実ですよ。
あえて、あたしのコメントは載せませんが、それでいいのか小泉君。



えーと、実はここまではフリなんですが、本題です。
「あなたは社会から必要とされていますか?」

某ニュース番組で終戦と沖縄の石垣島にできた慰霊碑の特番をしてました。
終戦後、戦犯裁判で死刑判決を受けた方は50人近くおられたそうで、実際にも数十名刑に服されたそうです。
死刑判決を受けた中で一番若かった方は23歳だったそうです。
コレは石垣島で起こった事件が元で刑を受けたそうです、事件のことは割愛しますが。
どうでしょう?この方を含め当時何万人の日本兵の中から数名のみ死刑になってるんです。
石垣島の事件があったにせよ。この方は当時の日本の社会から必要とされて亡くなったのでしょうか?


「あなたは社会から必要とされていますか?」
これはこの番組からの質問です。
テレゴングによる投票にはビックリしました。
圧倒的多数の方が「必要とされている」と答えてました。

正直ビックリです。
私の質問の解釈と、回答に参加された皆様の解釈に相違があったのかもしれません。
「必要とされている人間がいっぱいならこんな国にはならない」
私の率直な感想です。良い国の定義はあくまでわかりませんが。
質問に参加された方のほとんどがおそらく立派な社会人の方で、年齢も20.30代から高齢の方だと思います。
そう思うと私の中で一つの回答が出ました


「社会から必要とされていたいヒト」
「自分でもYes or Noを答えるには
ためらいがあるヒト」
「Noと言ってしまうと自己
の存在が否定されるヒト」



こう思えたのは某キャスターの一言でした。
「日本は戦後、もう一つの戦争をしている。それは今も継続中である」

まさにそのとおりなんでしょうか?
番組中のコーナーに「戦って逝く企業戦士たち」というコーナーがありました。
紹介されていたのは、某自動車メーカーの方で結婚3ヶ月目を迎えたばかりという方でした。
この方は自らの手で逝ってしまわれたそうです。

このところのいわゆる「過労死」というものは一時に比べると減ってきている。が、「過労自殺」が増加の一途である。
私の解釈では過労死というものは人間である限りよほどのことでないと起こりません。
就業中に突然たおれる。これは健全な精神を伴っていながら、なお自分の身体の異変を無視した結果といえます。
さまざまな方がおられます。進んで倒れる方。望まない仕事量。無意識下の意識の
占領

「過労自殺」はどうでしょうか?
先にも述べましたが人間である限り自分の体調の良し悪しは己である程度把握できると思います。
「体調による起因」での自らの手段でないならば、何ででしょう?
簡単ですが、精神的なものです。
以前まで私は自らの手で逝ってしまわれたヒトは「負けた部類である」とイキがっていたことがありました。
追い詰められたことのないガキンチョな人間にはそう映ったのかも知れません。
しかし今、私が精神的にもやや成長しその過程で見たものといえば、
社会人として自らの世界を広げた時に当たり前のように目に飛び込んできたあまりにも矛盾した世界。
この世界に足を踏み入れれば、手段としての「自殺」は大いに活用できるものと認識しました。

私の知り合いにも自らの手で逝かれた方がいます。私は彼を忘れることはできません。

彼らがどのような精神的状況でいたかは、想像することはできても完全に理解することは確実に不可能です。
いかにヒトがヒトを理解しようとしてもその範疇はヒトの尺度では測れないものがあります。
話がそれましたが、「過労死」と「過労自殺」を並べることはできませんが、起因は同じところにあるのではないでしょうか?

戦いの意味が一個人の保身と私欲そして占領なら人間にとって無いことのほうがおかしいのです。なぜならヒトですから。
しかし、その行為が絶対悪である以上、いかなる理由があろうとも避けるべきであるのは皆様も承知のはず。
現在進行形である戦いはどのような決着がつくのか見当もつきません。むしろつかないのでしょうね。



戦ってるヒトへ
あなたの世界は大きいですか?時間は流れていますか?

逝く人へ
そちらはまだ、忙しいですか?まだ戦っていますか?

自分を取り囲む世界がしっかりと見えることがヒトの成形ですか?
私にはまだ世界が見えています。



サミシイコト

こういうこと書いていいかわかんないけど、私のジジ様んちの近所の大学生が亡くなった。
心臓麻痺だそうです。
彼は京都の大学に在学していて、ひとり暮らし。日ごろの不摂生なのか持病なのかお風呂に入っていて心臓が止まったらしい。
冬のお風呂なら気温差によって麻痺がおこることは少なくないそうだが、たとえ夏のお風呂でたとえ水風呂に入ったとしても、
ハタチすぎの若者が心臓麻痺を起こすとは考えにくい。
その話を聞いた私と私のママンの結論は生活の不摂生と疲労に伴う心臓麻痺ということでまとめた。
それと「こういうことって一番さみしいよね」ってこと。

私もも学生のころはひとり暮らしで、ひとり暮らしをはじめるときにジジ様から
「アパートで突然たおれても気づくのが遅れて大事に至ることがあるから、体調管理だけはしっかりしなさい」と注意を受けた。
その当時は自分に「もしも」ということがおこるとはまったく考えていなかった。
おそらく日本中のひとり暮らしをしてる若者もあまり考えてはいないと思う。

私も成長し、ヒトの死に様を見てきている。
葬式に行ったときいちばん気にかかるのは、やはり残された家族のことだ。
子供が死んだ親はどう感じるのだろうか?友人の葬式に行ったとき亡くなった友人の両親の取り乱しようにたまらなくなる。
私は子供がいないし、両親も健在なのでいちばん身近な者を亡くした感情はさすがに読み取れない。
でも、今回のように年齢がちかい方がなくなるとさすがに考えなければならないと思う。

両親はどう気持ちの整理をつけるのか。
亡くなった本人はその間際なにを思ったのか。



ひとり暮らしをしていると実は死の危険が隣り合わせにいる。
カラダの異変。
外部からの危害。
よくひとり暮らしの大学生、特に女子が狙われて殺害される事件がおこっている。
たしかに、ひとり暮らしの女子学生ほど狙いやすいものはないと思う。
いろんな目的で。
もしこの文章をひとり暮らしの方が見たら確認してほしいと思う。

アパートに帰ればひとりであること、日本の安全性になれすぎていること。自分は健康であるか。



ミツメルコト

夜のニュースの特集で、とある国の世界遺産級の大仏がとある宗教による暫定政府によって破壊されたことを報じていた。
今年の3月に破壊され、今は跡形もないとのこと。
その土地にはかつて、ある宗教が盛んで、一時栄華を誇ったが、今は違う宗教勢力によって支配されている。

私ははわがままな人間だと思う。しかもかなり。多分。
自分の意見を突き通すのが好きです。サイテーですね。
でも、自分の意見を押し付けるのは嫌いです。意思を突き通すのは意外と簡単です。わがままになればいい。
しかし意見を押し付けるのは難しい。いわば自分派を作らなければいけない。
人間何らかの意思はある。他人の意思だけに賛同するヤツはそういない。
おそらく人間であれば同じ事象を同時に見ても微妙に捕らえ方が違うはず。
でも、周りに合わせることが得意な人間はいっぱいいるよね。とりあえず合わせるヒト。おもろいんかな人生。

うち死んだジーちゃんは熱心な浄土真宗の檀家だった。よく、おしょさんの説教聞きにいってた。
でも、私らを連れて行ったりとか、お参りとかを強要したことはなかった。
今、日本は宗教に関して非常に過敏になってると思う。いろんな事件もあったし。
でも、世界では稀に見る数の宗教があり、かつ、無神論者が多い国だ。
「わたしはナニナニ教です」とか言うとたいてい引いたりすると思う。個人的偏見かもしれないけど。

宗教ってのはなんなんだろうと考えることがある。
いろんな事件がおこったりするたび、自分の中の結論も変わる。捉え方の違いかもしれなし。

仏教の言葉を借りると、「他力本願」的なものがおおよそをしめているけど、K教、特にY教なんかみると「選民意識」という言葉まである。
神という存在が必ずしも絶対で、まさに世界の終わりが訪れたときにどう救われるかが違いなだけ。そう感じる。
厳密には違うのであろうが、どのような宗教でも共通していることは教祖という存在があって、神のお告げをうけた、もしくは生まれ変わりであると。
純粋に個人的感知から極端に言うとすると「あんた自分で見たわけじゃないのに信じられますか」と思う。
たとえば世界の半数近くがどのような派閥であれ、信者となっているK教。
いろいろ過激にやってくれてるY教。
それらのいわば教祖的な存在なヒトたちは確かに神の声を聞いたのかもしれない。でもあんたは?
確かに「自分の目で見たものが真実であるが、自分の目で見ていないものにも真実は多い」。
確かに世の中のことは知らないことの方が多い。

でも、全身全霊をかけて誓えることは多いのか?
K教なんかはもはや数え切れないほどの宗派があり、それぞれに戒律があり厳しさも違う。
よく食べ物なんかであるね。豚を食えないとか牛を食えないとか。
「神の御心のままに。」その心を記した経典もそれぞれ違うのは何故なんでしょう?
歴史的背景を見ても、有史以来の歴史は経典の違いによってだけ生まれた悲惨な事柄で埋め尽くされてる。
「汝隣人を愛せよ」他力本願な人々に投げかけてる最大のケナシ文句じゃないですか。
国教としてあるものは必ずしも利権がらみであるし。実際それによって統一された国もあるくらいだ。
教祖である人間の本当の意志を理解しようと一生懸命なヒトであればあるほど、それは盲目になりやすい。
それを利用するヒトも多い。かつて日本国教となった宗教も利用されただけだ。

面白い言葉を見つけたことがある。

神様を選べる時代。

それぞれが絶対唯一神を謳ってるなかで当たり前のように感じるのは私だけでしょうか。


人間は自分の意思に賛同してくれるのが好きだ。
自分がおもろいと感じたことを他人もおもろいと感じ、自分がキレイと思う絵をキレイといってくれるとすごくうれしい。
意思の協調性。それこそが最大の宗教になる。
選んだものを合わないと捨てる今、自分がどう感じ、どう捉えても誰からも束縛を受けない時代にそれぞれの観点で賛同する意思を模索する。
なんか、非常に滑稽な気がする。

統一的な意思を求め、自分に合わせたい。
誰もかれもが思うことだが一番最悪な意思なんじゃないかな?
絶対唯一神があって、その意思の心理をつかもうとすることが宗教の意味なら、なんら意味のないものになってしまうけど、
単純に心のよりどころとしての存在だけならその存在はなくていい。

冒頭に戻るが、都合のいい神はいらない。
人間として己を縛ってくれる神しか見えないなら、見ないほうがマシ。
己が力を誇示しないと存在すら認めらえない神なら、いないほうがいい。
ましてや神の存在がその意思でヒトの命を奪うなら絶対にいらない。拠所の神は神じゃない。

あなたは隣人を愛せてますか?


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